松本俊彦『薬物依存症』
本書は、ちくま新書の「ケアを考えるシリーズ」の4冊目の本に当たります。まず本書の内容を紹介する前に、薬物と依存症の関係について、ごく簡単に説明しておきたいと思います。
「薬物」における依存症の背景
「薬物」と言うと、一般的には薬局やドラッグストアで取り扱っている医薬品のこととイメージする人もいるでしょう。しかし薬物の後に、「依存症」という言葉が続くと、それが覚せい剤(マオウ)やマリファナ(大麻)、アヘン・モルヒネ・ヘロイン(ケシ)などの違法薬物のことだとピンと来る人も出てくるかと思います。薬物の意味を調べると、『1.薬理作用を有する化学物質。くすり。2.特に、麻薬や覚醒剤のこと』(デジタル大辞林)と定義されています。2の意味で薬物を思い浮かべた場合、「依存症」という言葉を使うよりも、一昔前まで使われていた「中毒」という言葉の方が、一般の人にはなじみやすいのかも知れません。
また「中毒」と「依存症」の言い回しの違いで、その受け取り方やニュアンスが微妙に変化してきたりします。たとえば中毒であれば、その治療は断薬になりますが、依存症ですと中毒になる一歩手前の状態と解することが出来るので、予防的効果が見込めると考えられます。もし中毒ではなく依存症と判断すれば、当事者の素行以外にも当事者を取り巻く環境的要因を含めて取り扱うことも可能となってきます。つまり「中毒」から「依存症」という言葉の置き換えに伴って、薬物自体の敷居が下がってくることもあり得ます。
筆者自身が感じたこととして、まず最初にそのことを指摘しておきます。ちなみに、本書でいうところの薬物とは、「中枢神経作用薬」のことを指していました。つまり私達の脳に作用して、思考や感情、さらには行動にも影響を与える科学物質が薬物であるとのことです。ここは本書を読み解く上で重要な点だと思いますので、是非、覚えておいてください。
『依存症というのはWHOが提唱して、比較的最近使われ始めた言葉で、以前は一般社会では「~中毒」などと呼ばれていました。つまりそれほど重要でないもの、または重要であるがそれほどの量・時間をかけなくてもいいことに対して「~がないと生きていけない」ように感じて、繰り返し接する状態を指します。(中野信子『脳内麻薬 - 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体』P42)
薬物依存治療に特化したプログラム
著者は現在、国立精神・神経医療研究センターで、薬物依存症に関する調査・研究に従事するかたわら、薬物依存治療のための専門外来を担当している精神科の医師です。本書では、著者が中心となって取り組んでいる活動を紹介していました。具体的には、薬物依存症(薬物中毒)に罹った人に対する支援方法の実践で、著者が開発した「SMARPP(スマープ)」と呼ばれるプログラムについて、ページを割いて事細かく概要を説明していました。
端的に言えば、「SMARPP(スマープ)」とは、薬物依存症の治療プログラムで、その特徴としては、ピアカウンセリングの手法を取り入れていて、当事者同士が集まって話し合うグループワーク形式の集団療法的アプローチと言えます。(平成28年度の診療報酬改定で、スマープは「依存症集団療法」として新規加算項目となりました)その点では、薬物依存症患者の回復支援の一つとして、当事者支援の充実を目指していることは評価されて然るべきところなのでしょう。
「公的な支援が薬物治療にも行き届くようにしたい。そうして薬物依存の患者が、公的支援を活用することにより社会復帰できる仕組みを作り上げていきたい。」
著者としては、そうした広大な構想を抱いて活動しているのではないか。読了後にそうした印象を受けました。
セーフティーネットの整備に向けて
さて依存症に対する世間のイメージは、「意志が弱い」「怖い」「快楽主義者」「反社会的組織の人」で言い表すことが出来ますが、先ほども述べたように、スマープでは環境的要因や個人の歴史的背景を加えながら、総合的にその人個人を捉えようとする視点を用います。つまり中毒に陥った人だと決めつけて対応する以外にも、むしろ依存症を取り巻く周囲の無理解のため、薬物依存症の人は、精神的に孤立することもあり、それが一層薬物に手を出しやすくする要因になっているのではないかというような疑いを持つことから始めます。ですから支援者の側に対して、そうした思考転換を求めていることは、スマープの功績だとしても差し支えないでしょう。
それを踏まえると、薬物依存者を処罰の対象者とみなしても、レッテルを貼られた当事者は一向に改善しなかったという認識に立っていることが分かります。刑罰や規制だけでは治らない。翻って当事者を全人格的な視点でもって捉え直していくということが、スマープの画期的な点のようです。
本書の肝は、たとえ違法薬物に手を出した人であっても、ケアの仕組みを改善することで福祉サービスの対象者に該当するのではないかとしたところです。ですから処罰の対象者ではなく、あくまで医療・福祉的ケアの範疇に属し、様々な支援を受けることにより、当事者達の立ち直りが十分可能だとしたことです。
脳の中の働き方
本書以外のみならず他の関連分野を学ぶ上においても、脳の働き具合に関して、理解しておいて欲しいことを提示しておきます。
薬物に頼らなくても脳に報酬を与える物質があり、その一つにドーパミンという物質があります。人間は生きる上で、常にドーパミンが自然に放出することが分かっています。
先にも書いたように、本書の定義に従えば、薬物とは『正しくは中枢神経作用薬、つまり脳に作用して、私たちの思考や感情、そして行動に影響を与える科学物質のこと。』です。少し専門的な話になりますが、中毒や依存症の原因を脳の作用面から説明しておきます。脳内では、神経伝達物質が片側のシナプスから放出されると、もう一方で受容されるという仕組みになっています。そうした神経細胞の相互の伝達により、中枢神経を興奮させる働きと抑制させる働きの2つの作用があります。基本的には、脳の中ではこうした働きがあると考えられています。ですから薬物を使わなくても、何らかの脳への刺激があれば、自然に神経伝達物質が快・不快の作用をもたらすべく、働いているという説(モノアミン仮説)です。
『毒・薬にかかわらず、ある物質が少量で私たちの特定の細胞に作用するためには、普通その細胞にその物質を受け入れる受容体がなければいけません。どんなに強力な物質でも、受容体がないと相手の細胞に入り込んで作用することはできないのです。』(中野信子『脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体』P37より)
いずれにしても、中枢神経に作用した神経伝達物質が人間に快楽をもたらし、その味をしめた人は、そうした刺激を求めて薬物を摂取するようになるらしいです。
薬物を摂取する前に何らかの目標を定める。自身で立てた努力目標をクリアしていけば、神経伝達物質が活性化される可能性があるため、薬物に頼る必要がなくなるのかも知れません。
薬物と向精神薬は親和性が強いので、それらを理解する上では、3種類の神経伝達物質であるモノアミン(ノルアドレナリン,セロトニン,ドーパミン)に基づいた知見を得ることが、薬物依存に留まらず、精神医学、脳科学の分野を理解する上でのポイントのひとつになっています。
拡充政策の課題点
今後、「薬物依存症」は、公的な支援の対象として、世間的に認識されるに至るのかは今のところ定かではありません。少なくとも著者は、福祉施策の充実という観点からも本書を執筆しているため、本書が「ケアシリーズ」の一つに選ばれたことからも明らかなように、拡充策には肯定的な立場だと思います。
それから、法的に考えた時に「麻薬及び向精神薬取締法」があり、薬物と向精神薬が併記されています。筆者はそこが気になっています。著者は精神科医でもあるので、日ごろの診察で患者さんに対して内服薬の処方をしていると思いますが、精神薬の依存性については、注意喚起を促すようなことは本書の中で語られていませんでした。
また公的支援の一つに数えたいのであれば、財源の問題は避けて通れないと思います。
しかし、本書では財源の問題について触れていないため、お金の流れが見えてきませんでした。ここのところは、今後、何らかの形で明らかにしてほしいと思いました。
『薬を断つときには減薬が基本だが、どんなに少しずつ減らしていっても、必ずどこかで禁断症状が出る。それが、向精神薬の恐ろしさなのだ。覚醒剤や麻薬の中毒者が、禁断症状を乗り越えなければ薬物をやめられないのと同じである。』(内海聡『睡眠薬中毒 - 効かなくなってもやめられない』P153より)
文章:justice
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