現代人は、「理性」というものを絶対的なものとしてとらえてしまう傾向にあるのかもしれない。
しかし、理性には、視野の狭い自己中心の理性もあれば、人類に貢献しようとするために知力を尽くそうとする大理性というものもあると、そのような趣旨を述べられた人もいる。
また、「理性ということばからは、私たちは磨きぬかれた精神のもつ誤りなき判断力というイメージをいだき、そこに絶対的な信頼の基盤を据えうるように考えがちですが、そこには大きな錯覚があると思います。
人間がなにかについて判断する場合、判断の行為は理性に導かれても、その基盤としては理性以前のなにかに立っています。
多くの場合、現実には欲望がその基盤になっており、それを正当化し、それを効果的に実現するために、理性による判断力を働かせているのです。
つまり近代科学技術文明は、結局、人間の欲望をその推進力としてきたのではないかということです。」とある人は、仰っています。
欲望のコントロール、超克が必要不可欠であると思います。
そうでなければ、社会生活はままならないものとなってしまい、欲望の追求が、人を不幸にしてしまいかねません。
人間には、欲望の命があるのは否定できませんが、行き過ぎた欲望は、人を不幸にしてしまうと思います。
その欲望が、自他共の幸福に貢献できるようでなければならないと思うのです。
人を不幸にするような欲望というものは、仏法で言うところの三毒の命であるひとつ「貪り」の命であります。
真の宗教には、その三毒の命を克服できる力があると思うのです。
筆者は、「理性」を否定するものではありませんが、それは、生命の表層面であると思うのです。
真の仏法は、生命の真実の姿を解明したものであると言われています。
それを信じ、行動するかは自由なのです。
自他共の幸福のために、信じ、実践していきたいものです。
必ず、現実の証拠が現れるものなのですから。
文章:シャーペン
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