必要なので、考えます(挨拶)。
と、いうわけで、フジカワです。
実は僕、大学時代に少し演劇部にいたもんですから、無性に「外」へ向かって喋りたくなるんですけど……
じゃあ例えば、個人でYouTubeのチャンネルでも作るか? となると、やろうと思えばできるものの、ややハードルが高いと思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回の記事は、「居場所、大事だよね?」などといった話です。
以前の記事に関連して
さて。今回は、少し前の記事である、こちら。
「誇張と消費」
の、補足的内容です。
僕としては、相変わらず「他人の事なんざ、どうでもいい」スタンスではあるのですが。
ちょっと気になったこともあるので、今回はその辺を。
正当化はされない
もはや恒例ですが、スマホ経由でニュースを読んでいました。
と、別のメディアが、例の「未成年が春を売ったりしている界隈」のことを取り上げていました。
その記事の主題は、「養分にされる中高年」で、つまりは「春を買う」側のおじさん達にフォーカスしていました。
若者というのは、意外としたたかなもので、その界隈では、年長者だからって敬われるわけでもない。
むしろヒエラルキー的に、買う側のおじさんは最底辺だ、とありました。
まあ、分かる話ではあります。言ってしまえば、カモなわけですしね。
ただ、気になる記述が。
「中高年の男性は、その界隈にしか、居場所がない」
何がどうあれ、買春は正当化されません。
でも、ふむ? と、僕の中に、一つの思い出がよぎりました。
家庭内のトイレ問題
あれは、僕が大学生の頃ですから、ざっくりと三十年ほど前でしょうか。
その頃の僕は、電車の駅で、朝の通勤ラッシュを整理するバイトをやっていました。
もっとも、隙あらばサボり倒して、チーフに雷を落とされたこともあったんですが。
とにかく、そのバイト中のことです。
朝の通勤ラッシュ時、決まって、男子トイレの個室に、長蛇の列ができていました。
並んでいるのは、ほぼ全て、中高年の男性。
さすがの僕も、個々人の出勤までにかかるタイムスケジュールまでは分からないんですが……
「もしかしたら、家で、大きい方のトイレをさせてもらえないんだろうか?」
と思いました。
当時読んでいた、あるマンガの中に、「人生をやり直す」系のタイトルがありました。
その主人公は、家庭を持ってはいるものの、妻からも、娘からも疎まれている。
娘なんか、「パパのパンツと自分の服を、一緒の洗濯機で洗うな!」というレベル。
要は「居場所」がない。
フィクションは、ある意味「誇張されてナンボ」の面がありますが、もしかしたら「あり得るリアル」かも知れない、と。
男子トイレの個室に列を成す中高年は、先も述べましたが……
ひょっとしたら「家では、大きい方のトイレを使わせてもらえないお父さん達」なのかも?
もちろん、「たまたま、トイレに行きたくなったのが出勤途中」だった可能性はあります。
が、その光景に、古い観念、あるいは言葉かも知れませんが、父権の失墜した果てを見た気がしました。
必死の形相でトイレを待っている男性達の顔に、背筋が冷たくなったのを、今に至るも覚えています。
居場所の問題
切ない話ですよね。
日々必死に働いているのに、本来は安らぎの場であるはずの家庭内にさえ、居場所がない。
であるならば、現実逃避したくなるのも、ある程度は分かろうというものです。
ただ、それすなわち、未成年を買っていい、と言うことには「断じて」ならんわけですが。
ところで、いつぞやにどこかで見たんですが、おじさんになってから、友だちの作り方に悩む人が、結構いるそうです。
なるほど、身内ですら、ともすれば、真の意味で胸襟を開けないのであれば、遅まきながらでも挽回はしたいでしょう。
例えば一杯飲むにせよ、仕事関係の人間と行くよりも、もっとざっくばらんな方が楽しいのは事実ですし。
「孤毒」
孤独は辛いものです。判断を誤らせるならまだしも、あまりに社会との接点がなさ過ぎる状態が続くと、それはもう、致死の毒にも等しい。
僕は個人的に、「孤毒」とも呼んでいます。
そして人間、追い詰められると、なりふりを構っていられなくなります。
「自分が必要とされる場であれば、どこであろうと」腰を据えてしまいます。
そんな中の一定数が、買春の界隈にいるのでしょう。
ただ、繰り返しますように、個人の事情や背景がどうあれ、買春は犯罪ですが。
「会社での地位は万能ではない」
結局のところ、この一言に尽きるかと思うんですよね。
いかに会社で管理職の地位にあろうが、そこを離れれば、ただの人。
以前、別の記事で読んだのですが、あろうことか、退職後、家庭内でも管理職のように振る舞い、家族から総スカンを食らうミドル、なんて例もありました。
居場所がない、友だちもいない、中高年の男性。
ある程度の同情の余地はありますが、冷たい言い方をすれば……
若い頃から、「残る繋がり」を作ってこなかった。
あるいは、「会社での地位が万能だという勘違い」を矯正できなかった。
またあるいは、「旧来の繋がり」にこだわるあまり、波に乗るタイミングを逸した。
そのツケじゃないでしょうか?
まあ、そういう僕も、真の意味で「友」と呼べるのは、今や、遠くに住んでいる、大学時代の同級生一人だけなんですけどね。
それ以外は、ぶっちゃけ、Twitter上でのゆるい繋がりで、別に不満はありません。
もちろん、Twitterが全て! となんざ言いませんけど、少なくとも僕は、過去に一人暮らしをしていた頃、相当助かったのは事実です。
まとめ
ってことで、まとめます。
おじさん達に居場所がない。確かに、深刻な事態です。
ただ、その気になれば、作りようはあるはず。
薄かろうが、濃かろうが、コミュニティに(僕的には)優劣はありません。
ですが、寂しさを埋めるために買春に手を出すよりは、まだ健全だと思います。
なんだかんだで、毎度のごときシメですが。
「自分のケツは自分で拭こうぜ?」という。
んじゃまた。
文章:フジカワ