戦後の精神保健医療福祉の年表(主に統合失調症が対象)を作成した雑感
自作年表
年 | 出来事 |
1935年(昭和10年) | 日本神経学会が日本精神神経学会に改称(発会は1902年) |
1939年(昭和14年) | 国内で電気けいれん療法(ECT)が創始される。 作用機序は現代においても不明だが、きわめて限定的ながら現在も行われている療法である。 第2次世界大戦勃発 |
1940年(昭和15年) | 国民優生法公布 |
1942年(昭和17年) | 国内で初めて精神外科療法(ロボトミー手術)が行われた |
1945年(昭和20年) | 第2次世界大戦終戦ののち国際連合成立。日本国はポツダム宣言を受諾 |
1946年(昭和21年) | GHQにより生活保護法制定 |
1947年(昭和22年) | 保健所法制定 |
1948年(昭和23年) | 世界精神保健連盟設立。優生保護法公布 |
1949年(昭和24年) | 優生保護法改定公布施行。日本精神科病院協会設立(日精協)。 ロボトミー手術の創始者がノーベル賞を受賞する |
1950年(昭和25年) | 精神衛生法が制定される。私宅監置が禁止された 精神外科療法が最盛期を迎える |
1951年(昭和26年) | 社会事業法廃止と社会福祉事業法制定 |
1952年(昭和27年) | クロルプロマジンの精神分裂病に対する治療効果を初めて正しく評価した。アメリカ精神医学会が精神障害の診断と統計マニュアル(初版DSM-I)を出す |
1953年(昭和28年) | 日本精神衛生連盟(現 精神保健福祉連盟)結成 第1回全国精神衛生大会開催 |
1954年(昭和29年) | 第1回全国精神衛生実態調査実施。 精神病院開設国庫補助制度開始(精神病院建設ブームの到来) |
1955年(昭和30年) | 全国の精神病院病床数は4.4万床。 精神外科療法と並行して向精神薬による薬物療法がはじまる(クロルプロマジン導入) |
1956年(昭和31年) | 生活療法提唱(精神外科療法の後療法として、しつけ療法+あそび療法+はたらき療法) |
1957年(昭和32年) | ベルギーでクロルプロマジンより優れた抗精神病薬ハロペリドールを開発 |
1958年(昭和33年) | 精神科特例(精神病院スタッフの人員に関する特例)いわゆる少ない人員で入院患者を管理、運用できるようになった。大量長期投与の常態化による薬物市場主義の台頭。 群馬県で生活臨床が生活療法を超える治療法として「地域で診る」実践が始まる。 |
1959年(昭和34年) | 精神病院の入院病床増加促進により全国で8.5万床に伸びる。 生活療法の思想やそれに基づく精神医療体制がもたらす精神病院ブームが到来 |
1960年(昭和35年) | 医療金融公庫法施行(精神病院建設への優先的融資) |
1961年(昭和36年) | 措置入院費用に関する国庫負担引き上げ |
1962年(昭和37年) | 日本精神神経学会が“社会復帰”をテーマにシンポジウムを開催 |
1963年(昭和38年) | 第2回目の全国精神衛生実態調査を実施。WHOの勧奨を受けて「作業療法士」養成校が開設された。 生活臨床学派が台頭、熱心な地域活動家の支持も相まって実践と理論研究が進められる |
1964年(昭和39年) | ライシャワー事件が起きる。(長期保護収容入院の幕開け) 東京オリンピックが開催される |
1965年(昭和40年) | 精神衛生法改定公布。通院費公費負担制度の創設。 精神障害者家族会連合会結成。 「理学療法士及び作業療法士」法制定 |
1966年(昭和41年) | 従前の理論的に未整理なまま実践されている生活療法の体系が完成し、生活指導を看護、その他は作業療法という名の生活療法として精神医療に還元させた。 一方で、国内で初の「作業療法士」が誕生(従来の作業療法=生活療法のことではない)。身分の名称や療法内容が混同されて後々に混乱を招く |
1967年(昭和42年) | イギリスの精神科医が反精神医学を唱える |
1968年(昭和43年) | WHOが「WHOクラーク勧告」を日本国政府に行うが無視される。全国の大学で学園紛争が拡大する |
1969年(昭和44年) | 第66回日本精神神経学会大会をきっかけに精神医療全体の改革運動が始まる |
1970年(昭和45年) | 全国の精神病院病床数は25万床。 精神障害回復者社会復帰施設設備予算化。 医療や福祉と家庭の間の中間施設として救護所のみやま荘が開設される、理論的な裏付けのないまま、“もどき”療法を様々なカリキュラムや手法を用いて援助を展開、社会生活技能訓練(SST)もその一つだった |
1971年(昭和46年) | 後の東大医学部教授が20年前に行った精神病患者へのロボトミー手術の際に人体実験を行ったと告発される |
1972年(昭和47年) | 国際連合が「精神遅滞者の権利に関する宣言」を行う |
1973年(昭和48年) | 第3回全国精神衛生実態調査実施。 保健所精神衛生相談員がYの両親から相談を受けて無診断入院が行われた事件が起き、第9回PSW全国大会の席上でY本人から厳しく告発される問題(Y問題)が起きる。1961年(昭和36年)に実現した「国民皆保険・皆年金」を中核とする日本の社会保障制度は高度経済成長を背景に拡充を続け「福祉元年」を迎える。 第1次オイルショックが起きる。 |
1974年(昭和49年) | 「作業療法」及びデイケアの社会保険診療点数化され認可され、通院精神療法(カウンセリング)の診療報酬が引き上げられる。日本精神神経学会が従前の生活療法内に呼称される作業療法と混同したまま異議を申し立てた。 |
1975年(昭和50年) | 日本精神神経学会が精神外科を否定する決議を可決した。 国際連合は「障害者の権利に関する宣言」を行う。 |
1976年(昭和51年) | 第31回国際連合総会はそれまでの障害者に対する差別と不平等の是正を訴えたが十分に効果をあげていないという認識に基づき、1981年を国際障害者年とすることを決議。 |
1977年(昭和52年) | 共同作業所全国連絡会(現 きょうされん)が結成される。限定的ながら小規模作業所に国庫補助金制度が始まる。 |
1978年(昭和53年) | イタリアでバザーリア法を公布(世界で初めて精神科病院の廃絶) |
1979年(昭和54年) | ロボトミー殺人事件が発生する(1966年に最高裁で無期懲役が確定) |
1980年(昭和55年) | DSM-Ⅲが刊行される。 新宿バス放火事件をうけて当時の法務大臣が、精神障害者の保安処分の導入に言及する |
1981年(昭和56年) | 国際連合の決議により国際障害者年として世界的規模の啓蒙活動が行われた。 国内で小規模デイケアの診療報酬も認められる |
1982年(昭和57年) | 通院患者リハビリテーション事業(現 社会適応訓練事業)実施 |
1983年(昭和58年) | 第4回全国精神衛生実態調査。(この頃から地域包括ケアシステムへの実践的な取り組みが広島県御調町で行われる) |
1984年(昭和59年) | 宇都宮病院で「看護者による患者リンチ殺人事件」が明るみに出る。 この事件をきっかけに国内外から日本の精神保健や精神医療現場における精神障害者の人権蹂躙が取り上げられ、世界中から日本国政府に非難が集中した |
1985年(昭和60年) | 国際法律化委員会(ICJ)が日本国内の精神科医療の実態を調査に訪れる |
1986年(昭和61年) | 国立精神・神経センター設立(国立精神衛生研究所廃止)。精神科の訪問看護が診療報酬の対象となる |
1987年(昭和62年) | 精神衛生法から法律の名称が精神保健法へ改正、任意入院制度の創設や精神医療審査会の創設。 精神障害者の人権擁護と社会復帰の促進のため社会復帰施設の規定が設けられ、地域ケアの取り組みが法律に明示された。 生活臨床の治療運動が、社会変動に即応できず生物学的研究が時代の主流となり、見直しを迫られるが衰退する |
1988年(昭和63年) | 精神保健法施行、入院患者の人権擁護、社会復帰促進など、処遇が改正される。 社会生活技能訓練(SST)がアメリカですでに実践していたリバーマン教授の来日をきっかけに普及し始める |
1989年(平成元年) | 昭和天皇の崩御。皇太子明仁親王の即位。 |
1990年(平成2年) | 生活臨床という療法が解体される |
1991年(平成3年) | 国連にて「精神疾患を有する者の保護及びメンタルヘルスケアの改善ための諸原則に関する決議」を採択 |
1992年(平成4年) | 精神障害者地域生活援助事業(グループホーム)の予算化。 |
1993年(平成5年) | 障害者基本法成立、精神障害者が初めて身体障害、知的障害者と同じく障害者として法的に位置づけられ、精神障害者に対する福祉が法的に明示されていく(グループホームの開始)。 大和川病院事件が発覚。 精神科病床数は36.3万床のピークを迎える |
1994年(平成6年) | 保健所法を地域保健法に改正(昭和22年以来47年ぶりの改正)。 SSTが入院生活技能訓練療法として診療報酬化される。 |
1995年(平成7年) | 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に改正。社会復帰施設の4類型が定められ「自立と社会参加」の促進が強調される。精神障害者保健福祉手帳制度の創設。 阪神・淡路大震災発生 |
1996年(平成8年) | 障害者プラン(ノーマライゼーション7カ年戦略)を政府の障害者対策推進本部が実施。初めて施策に数値目標を盛り込んだ。 優生保護法が母体保護法に改定 |
1997年(平成9年) | 介護保険法の制定。高齢者問題の対応に取り組む |
1998年(平成10年) | 精神科診療所の診療報酬の拡大がピークに達する(通院精神療法392点に引き上げ) |
1999年(平成11年) | 精神保健福祉法改正。地域生活支援センターの設置や精神障碍者在宅支援制度導入(ヘルパー、ショートステイ、グループホームの3事業予算化) |
2000年(平成12年) | 人口の高齢化に伴い高齢者を社会全体で支え合っていく仕組みとして公的介護保険制度施行。 医療法の改正に伴い精神科特例が見直される。 改正を重ねてきた社会福祉事業法の名称が社会福祉法に改称される |
2001年(平成13年) | WHO総会にてICIDH国際障害分類をICF国際生活機能分類に改定を採択。 精神科特例の廃止。 附属池田小学校事件発生。アメリカ同時多発テロ事件が起きる。 |
2002年(平成14年) | 居宅生活支援事業(ヘルパー、ショートステイ、グループホーム)市町村が運営主体となり精神障害者の自立生活を助長する。 精神分裂病の診断名が統合失調症に変更される |
2003年(平成15年) | 新障害者基本計画および重点施策実施5か年計画(新障害者プラン)が策定され共生社会の実現を目指す |
2004年(平成16年) | 「障害者基本法」の改正。精神保健医療福祉の改革ビジョンが出され「入院医療中心から地域生活中心へ」という基本理念が掲げられた。 それに基づき「改革のグランドデザイン案」が厚生労働省から提案される。 |
2005年(平成17年) | 医療観察法施行、精神医療法に司法の関与を組み合わせた精神保健福祉法の特別法である。 |
2006年(平成18年) | 障害者自立支援法施行。精神障害者も身体、知的と同じく福祉サービス体系に含まれた。障害種別の授産施設の多くが就労移行支援事業所と就労継続支援事業所(A型、B型)などへ移行した。 国連総会で「障害者の権利に関する条約」が採択される |
2007年(平成19年) | 日本が国連の「障害者の権利に関する条約」に署名する |
2008年(平成20年) | 国連の「障害者の権利に関する条約」が発効。 地域包括ケアシステムの介護・医療・行政が連携、協働してシステム構築の研究が進む |
2009年(平成21年) | 政府が「障がい者制度改革推進本部」を設置、集中的に国内制度改革が進められる。 政権交代が起きる。 |
2010年(平成22年) | 障害者自立支援法の改正案が成立 |
2011年(平成23年) | 「障害者基本法」の改正。障害者虐待防止法成立。 東日本大震災発生 |
2012年(平成24年) | 障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援する法律の成立(障害者総合支援法) |
2013年(平成25年) | 障害者総合支援法施行。 国連人権理事会が日本に対し、精神障害者の長期にわたる社会的入院や、過剰な身体拘束と隔離が用いられていることを警告する |
2014年(平成26年) | 「障害者の権利に関する条約」の批准書の寄託、条約が日本に効力を生ずる。 「医療介護総合確保推進法」が施行される。政策として「地域包括ケアシステム」構築が推進され、法律の整備が行われる。 「生活保護法の一部を改正する法律」の施行 |
2015年(平成27年) | 千葉県警が精神科病棟に入院していた男性患者を暴行して頸椎を骨折させ死亡させた事件で男性准看護師2名を逮捕 |
2016年(平成28年) | 相模原障碍者施設殺傷事件が発生。 ベゲタミンが製造中止 |
2017年(平成29年) | 地域包括ケアシステムに精神障害者にも対応できるよう政策理念の明記が検討された |
2018年(平成30年) | WHOがICD-11を公表。 ギャンブル等依存症対策基本法施行 |
2019年(令和元年) | 京都アニメーション放火殺人事件発生。新型コロナウイルスが世界各地で発生する。 |
2020年(令和2年) | 神出病院にて看護職員6名による複数入院患者に対する虐待が発覚し、6名全員が兵庫県警によって逮捕された |
2021年(令和3年) | 民間事業所の障害者効用率が2.3%に引き上げられた。 新型コロナウイルス医療従事者ワクチン先行接種始まる。東京2020オリンピック夏季競技大会が開催される。大阪北新地ビル火災が発生、精神科・心療内科クリニックが放火される。 |
2022年(令和4年) | 1月、精神科病院への入院に関する全国一斉電話相談を行う(精神医療人権センター)
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過去を振り返って
年表作成を振り返って、戦前から戦後の精神障碍者の処遇はひどいものでした。しかしながら当時はこれといった特効薬や治療法もなく、騒いだり暴れたり自死を遂げようとする精神病者が家族や地域に大きな迷惑をかけているのを、保安上や社会防衛の観点から精神病院へ収容するのは無理もなかった時代とも言えます。
それが精神障害者の人生や希望を閉ざし、終わりのない入院生活で治療の名のもと使役に明け暮れていたのは、人権上、大問題でしたが、今もなお帰る場所を失い、社会的入院を余儀なくされている精神障碍者は多数います。
基盤整備に着手
精神障碍者の人権を失われないよう、司法も、心神喪失や心神耗弱の状態で重大な他害行為を行った精神障碍者を、刑罰だけでなく医療行為を通じて社会復帰を目指すための支援を行うよう特例法を設けたのは画期的でしたが、それでもその後、精神疾患を疑われる犯人が起こす悲劇的な事件は後を絶ちません。
同じくして入院患者に対する医療看護スタッフの暴力や虐待など明るみになるにつけ、それらは精神科病院内でおきる人権侵害の氷山の一角ではないかと疑心暗鬼になります。
当事者の思い
統合失調症にかかると正気を失い、重大な自傷他害を行うという大きな偏見は、解消に向けて医療の進歩による治療方法とリハビリと法的整備が進むにつれて、精神障碍者の理解が進んだように見えますが、現代的な治療が進むにつれ、正気を取り戻し、いざ地域へ戻って暮らしや仕事を再び始めようと思っても、親族に受け入れてもらえず、住むところからして不自由な思いをする精神障碍者は多数いると思います。
それで勝手に服薬や治療を中断して、やけを起こして粗暴な行為や問題を起こすという負のスパイラルが、ごく一部の精神障碍者の身の上に起きている気がします。
そしてなによりも人生を悲観して他害行為に走るのではなく、自傷や自死を遂げる方法をとるのが、はるかに多いのがこの病気を抱える人々の特徴です。
理想と現実の狭間で
衣食住を確保するために社会保障制度を活用し、就労に従事するなどして所得を得なければなりませんが、まだまだ障害者にその道筋を辿るための医学的にもさながら、法的な下地の地域行政の支援が物心ともに不十分に思えます。
最低限の人権は保障されたものの、病院から出て福祉サービスや地域の人的ケアを受けながら、就労と自立を目指すのは理屈としては分かりやすいのですが、そこに至るまでの通院と服薬と訓練を長い時間をかけて辛抱強くやり遂げるには、福祉のサービスの質が本当に最低限かあるいはリテラシーが不足で、その間の住まいと病院の間に必要な中間的な憩える居心地の良い居場所が少ないのが実情だと思います。
そのサードプレイスは福祉のサービスでは行き届かないので、どうしても、地域の中を流浪して各々が憩える居場所探しに明け暮れるのが現状かもしれません。それが贅沢な悩みなのか、社会に参画する人間らしい暮らしに必要な要素なのかは各々の判断に任せますが、限られた社会資源を利用する中で精神障碍者が各々、ゆとりと憩いを求めて、自己責任のもと創意工夫を求められているのは、社会における地域、家族単位での小さな偏見の集まりがもたらす居場所不足の問題を障碍者に背負わせているような気がします。
文章:drachan
画像提供元 https://www.pexels.com/ja-jp/photo/7025520/