「ふつう」というものが無くなって久しい今日このごろです。
「ふつう」という概念がその効力を失ったというよりも、完全に消滅したというのがふさわしいのではないでしょうか。
「ふつうこうするだろ」とか、「普通の人は」といったセリフを聞くことは全く無くなりました。
にもかかわらず、「ふつう」でなければ生きていくことができません。
これは一体どういうことなのでしょうか。
ひとつ考えられるのは、「ふつう」という概念が完全に消滅したのは見かけ上だけであって、人々の意識下や明文化されることのない慣習、何らかの奥底に沈みこんだのではないか、ということです。
そうであるとすると、「ふつう」というものは確かに存在していながら、それがどんなものであるのか、「正体」がよくわからないものである可能性があります。
人々の生き方やライフスタイル、ものの考え方が多様化したということは、これは事実として認めなければなりません。
しかし、その多様化の影で、強固な平準化が着実に進行しているのではないでしょうか。
ここでいう「平準化」とは、まさに「「ふつう」であれ」という宣告あるいは至上命令がもたらす事態のことです。何が宣告を下しているのかと言えば、これは「世間」であるというほかありません。
凹凸のない「平準人間」がかつてなく求められている世の中において、人々は何らかの目につく特徴はできるだけ隠そうとします。
なぜなら、そんな「平準人間」は存在するはずもないからです。なにもかもが「ふつう」である、あらゆる面において「ふつう」であるような人間がもしいたら恐怖です。
「ふつうでなさ」は誰しも持っているものであり、大抵の場合それを押し隠して日常に溶け込んでいます。
こういった状況で起きることは、その「ふつうでなさ」を隠すことができない人が排除されるということです。逆に言えば、とてつもなく異常であっても、それを非常に巧妙に隠しおおせる人がうまく世の中を渡ることがあるのはよく散見されることです。
例えば、事件が起きて容疑者が捕まり、彼を知る人々が口を揃えて「あの人がそんなことをするなんて信じられない」と言うといったことを挙げられます。
事件を起こすまではうまく日常に溶け込んでいたわけで、そういった事件化・表面化しないケースというのは膨大であると考えられます。
他方で「ふつうでなさ」を隠せない人が排除されています。それは、見えないところに追いやって見ないふりをするという形で最初行われ、次第にそのことも忘れていき、ついには存在しないことになってしまいます。
ダイバーシティという言葉が盛んに叫ばれて、多様性を尊重しなければならないと主張されることが多くなりました。
それは多様性が本当の意味ではいまだ尊重されていないことの証左です。
あるいは、そのように言うことで表面上取り繕っているだけという場合もあるでしょう。
「ふつう」というものがもう無いとしながら実際にはあることで、「ふつう」というものの正体がわかりにくくなり、困り果てる人々がたくさんいます。
強固な平準化が進行する理由は、リスクを軽減したいという思惑が存在するからです。
そのことがかえって影の巨大なリスクを見逃す結果を招いてしまっています。
大切なことは、真の意味での包摂を根っこの思想とし本当の多様性を認めることであり、隠された構造を明るみに出し見かけ上わかりにくい事態の進行をつぶさに追っていくとともに、「ふつう」なんてないというふりをせずに新たな「ふつう」を建設することです。
文章:parrhesia
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