生活

2024年から新たな紙幣の顔となる3人を紹介!

 

4月9日火曜日、麻生財務相により新紙幣が発表され、新元号に続き世間で賑わいをみせている。

新な紙幣の顔となる渋沢栄一(1万円)、津田梅子(5千円)、北里柴三郎(千円)とは一体どのような人物なのか?

今回は、偉業を成し日本に名を残した紙幣の新たな顔となる3名の紹介をしよう。

 

 

渋沢栄一

 

 

1840年(江戸時代)生まれの武士、官僚、実業家。享年92歳。

様々な製造販売や生産を手掛ける豪農の家に生まれ、そこでの販売や仕入れ作業の経験と、1867年に徳川昭武の随員としてフランスへ渡航した経験を活かし、帰国後、株式会社制度を実践、また商法会所(金融商社)を設立。その後、大蔵省に入省する。

大蔵官僚としては改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例設定に携わるも、

予算編成を巡り大久保利通や大隅重信と対立。1873年に井上馨とともに退官し、2年後、商法講習所(一橋大学の源流)を設立する。

退官後、間もなく官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、

以後は実業界に身を置く。

第一国立銀行や地方銀行の他、東京瓦斯(東京ガス)、東京海上火災保険、王子製紙(現:日本製紙)、田園都市(現:東京急行電鉄)、秩父セメント(現:太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

また栄一は、「私利を追わず公益を図る」という道徳経済合一の理念を生涯に亘って貫き通し、財閥を作らず後継者にもこれを固く戒めた。

企業の設立以外にも社会活動に熱心であり、東京慈恵会、日本赤十字社、東京経済大学の設立に協力したほか、女子の教育の必要性を考え伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立。日本女子大学、東京女学館の設立に携わった。

 

渋沢栄一記念財団HP

 

津田梅子

 

1864年生まれの女子英学塾(現:津田塾大学)創立者、日本の女子教育の先駆者。享年64歳。

1871年、女子留学生の募集に梅子を応募させた実父により6才で渡米。

日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられ、そこで英語やピアノ、ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術など学ぶ。

そして1882年に日本へ帰国するも、当時の文部省は梅子含む女性留学生に職を与えず(男子留学生には役人や大学教授のポストを用意)、女性の地位の低さにショックを受ける。

女性が自立し生活していく事が困難だった当時の日本社会、共に働こうと誓い合った女性留学生仲間が軍人に嫁ぐ中、梅子は教育者として自活する道を目指し1883年に私塾・桃夭 女塾や華族女学校で英語教師を勤めるが、上流階級の女性に花嫁修業のような教育をほどこす校風に馴染めず、7年後に再び渡米。

オスウィゴー師範学校で教育教授法を学び多くの女性リーダーと交流する他、日本女性に関する研究をしていた留学時代の友人アリス・ベーコンの影響により日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。

1892年に帰国した梅子は再び華族女学校に勤めながら自宅で女学生を預かるなど積極援助を行い、2年後明治女学院でも講師を勤め、1898年には女子高等師範学校教授を兼任するが2年後に官職を辞し、協力者の助けを得て「女子英学塾(現:津田塾大学)」の設立願を東京府知事に提出。

認可を受け開校し、塾長となり、華族平民の区別ない女子教育を志向して一般女子の教育を始める。

 

津田塾の歴史

 

 

北里柴三郎

 

1853年生まれの医学者、細菌学者。享年78歳。

庄屋の息子として生まれた柴三郎は甘えを許さない両親の教育の下、親戚の家や母の実家に預けられながら漢籍や国書などを学び、17歳になった1870年に熊本医学校に入学。

そこでマンスフェル教師に出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚め、特別に語学を教わりながら3年間在籍する。

1875年に東京医学校(現:東京大学医学部)へ進学、1883年に医学士となり卒業後、内務省衛生局へ就職。1885年、東京医学校の同期生で東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいでドイツベルリン大学へ留学。

コッホに師事し業績をあげながら、1889年には世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。1890年には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させ、さらに血清療法という画期的な手法を開発した。

同年、「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表し欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、これらを固辞して1892年に帰国した。

ドイツ滞在中、緒方正規の説に対し批判を呈した為「恩知らず」として母校と対立する形となってしまい帰国後も日本での活躍が限られたが、この事態を聞き及んだ福沢諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立され柴三郎は初代所長となった。

その後、伝染病予防と細菌学に取り組み、1894年にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげる。

諭吉の没後、1917年諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため慶応義塾大学医学部を創設し、柴三郎は終生無給で慶応義塾医学部の発展に尽力した。

 

北里柴三郎記念館

 

文章:ファンキー後藤

 

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