尼崎における梅にまつわる興味深い歴史ミステリーをご紹介します。
「梅の木塚」は、旧立花村東富松の南東にあたる字梅の木(現在の尼崎市塚口町5丁目周辺)にあったとされています。
平成11年(1999年)に梅の木自治会が、住宅地である塚口町5丁目25番の土地の一角に「古跡梅の木塚」と刻した石碑を建てました。
この辺りは、伊丹市南部から尼崎市北部にかけての塚口・猪名野古墳群の南西端にあたり、住宅地が開発されるまでは小さな塚が散在していた、といいます。
昭和17年に尼崎市に合併された立花村は、その合併直前に『立花志稿』なる名所・旧跡の紹介本を刊行しており、そこには「梅の木塚」や「座頭ヶ塚」、「車塚」といった塚が紹介されています。それらは東富松の小字名となりました。
現在の富松川は、18世紀末(寛永年間ごろ)に作られたとされる水路絵図を見ると、
「梅の木川」と記されています。
そもそも塚とは、歴史上または伝説上の人物や、それと何らかの縁のあるもの(家来や道具など)の歴史的な遺跡、あるいは具体的な伝承はないものの、そこに手を加えるとなにか良くないことが起きるという理由から、田畑や住宅地として利用されることなく、後世に遺された一定の区域を言います。
一般的には古墳であることが多いと言えますが、必ずしも墓であるとは限りません。
「梅の木塚」をめぐる伝承は数々ありますが、ここでは梅伝説に関係するものと、高師直方の武将の首塚に関するものを取り上げます。
尼崎には「なにわの梅伝説」の伝承がありますが、その伝承がある東難波・西難波と伊丹の「御願塚古墳」とが街道で結ばれており、こちらの梅の木塚がある東富松が街道の接続点となっているのです。
東難波には「梅の木」、西難波には「梅の本」の字名があり、御願塚の周辺にも同じく「梅の木」と呼ばれる地名があることが非常に興味深いと言えます。
一説によると、この梅の木塚は、南北朝時代の武将高師直の首塚ではないかと言われています。高師直は室町幕府を開いた足利尊氏に側近として長く仕えた武将であり、南北朝の内乱において武勲を上げた名将として知られるとともに、日本で初めて土地給付の強制執行を導入し弱小な武士・寺社の救済が実効的に機能するようになるなど、政治機構や法体系を整備し行政面で大きな改革を成し遂げました。
しかし、革新的な政策を推し進め勢力を拡大した高師直は公家や僧侶たちに憎まれるようになり、保守派との争いが勃発し足利氏の内紛のさなか命を落としてしまいました。
師直は武庫川周辺において弟師泰とともに上杉能憲らに殺害され、近世には武庫川の東西両岸に師直の塚の伝承があったといいます。それゆえ、東富松にかつて師直の塚が存在していたとしても不思議ではありません。
この梅の木塚には不明なことが多く謎は深まるばかりですが、いずれにせよ、梅の木というものが尼崎において相当に深い縁を持ったものであることは確かなことだと思われます。
文章:増何臍阿
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