一人一人が幸福になるために、
知性やリテラシー(情報を読み解く力)を鍛えていく
それが教育の目的である。
これは、ペスタロッチ主義などのリベラルな教育思想です。
幸福になるには、私たち一人一人が知性を磨き鍛え、リテラシー(情報を読み解く力)をつけていく事が、重要であります。
現代も、マスコミなどの情報をうのみにせず、情報操作の可能性を念頭に置きつつ、何が正しい情報なのかを読み解く力(リテラシー)が一番問われているのだと思います。
そのために、思考停止に陥らないために思考力が必要ではないかと思います。
自分の頭で物事を良く考えることが必要なのではないでしょうか?
人は、意識的にせよ、無意識的にせよ、物事や人など何物かを信じなければ身動きができないと思います。
例えば、ペットボトルのお茶があったとします。賞味期限を確認し、それを信じて飲むわけです。
まさか毒が盛られているなどとは、普通は誰も思わないと思います。
売られていた自動販売機やお店を信じて買って飲むわけです。
そのお茶に毒が入っていると思ったら誰も飲めないと思います。
誰かが細工をして、もし毒を入れていたら、信じて飲んだ人は、死ぬことになるでしょう。
その様な事件が多発すれば、誰も自動販売機やそのお店では飲み物は買わなくなるでしょう。
人は、親を信じ、友を信じ、先生を信じて、人の言う事を信じ、書かれたものを信じていると思います。
要は、それが正しいのか間違っているのか今一度、よく吟味しなければならないという事です。
前にも申しましたが、ひとは、何物かを信じなければ、身動き一つできません。
その信じたものが、普遍妥当性のあるものなのかどうかが、一番問われているのだと思います。
正しいものを信じれば、プラスになり、誤ったものを信じれば、マイナスになる。
これは道理です。
誰も異論はないと思います。
その誰にとってもプラスになる教えが真実の教えです。
釈尊が悟った法、その膨大な経典。
経文どうりです。
智慧第一の舎利弗でさえ、自分の智慧で悟ったわけではなく、仏の教えを信じて初めて成仏の記別が与えられたのです。
以心得入と言いまして、信じることによってはじめて仏が覚った偉大な智慧・境涯を自身のものとしていく事が出来たのです。
まして末代の凡夫である我々、智慧の劣っている人間が自分の智慧で悟ることは甚だ難しいのです。
我々凡夫は、以心代慧と申しまして、信じることによって智慧を買うことが出来るのです。
「仏が智慧によって覚知した正法を、自身の智慧によって覚知する代わりに、仏が説いた正法を信じ行ずることによって、智慧で得るのと同じ功徳を享受して成仏すること。」とあります。
仏典に
“三世の諸仏の成道も「信」の一字より起こるなり。この「信」の字、元品の無明を切る利剣なり。その故は、「信」は、「疑いなきを『信』と曰う」とて、疑惑を断破する利剣なり。「解」とは、智慧の異名なり。「信」は価のごとく、「解」は宝のごとし。三世の諸仏の智慧をかうは「信」の一字なり。”
とあります。
また仏典に
“信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり。”
とあります。
何を信じるか、根本の教え「宗教」が、一番大事になってくるのです。
幸福になるために、根本の教えである「宗教」「正しい教え」を選び取っていく事が一番大事なのです。
勇気を出して正しい教えを選び取りましょう。
自他共の幸福のために。
文章:シャーペン
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