不安な状態だと、かえって馬鹿力的な何かが湧くタイプです(挨拶)。
と、いうわけで、フジカワです。
割と頻繁に僕の記事が掲載される当ブログではありますが。
考えている本人はそれなり以上にしんどいことを強くアッピル(誤字にあらず)したい今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回の記事は、「俺に自分を肯定させてくれ!」などといった話です。
個人的家庭環境
さて。何度か触れております通り、僕は「ものを書く」以外、なんにもできません。
そりゃあもう、社会不適合者レベルにマヂで、なーんにもできません。
もっともこれは、「それ以外をやる気がない」、「書くこと以外に、そもそも興味がまったくない」ことも、多分に影響していると思われますが……
じゃあ、家庭環境がそうなのか? って問われりゃ、まるっきり違うんですよね。
僕の親なんか、「作文」というもの自体が苦手というか、本人曰く「大嫌い」だそうで。
欠点をあげつらって嘲笑する意図は無いにせよ……
例えば、ある時の親が考えた、自治会の総会で発言する折の質問文なんか、そのままだったら無礼千万な文体でした。
要は「他人様にお伺いを立てる作法」が、まるでなっていない。
親から依頼を受けたので、僕が徹底的に赤入れをしました。
その際、「どこがどう悪いか?」も、懇切丁寧に説明。納得させるのは、結構骨でした。
そんな親は、「なんで(書くのが大好きな)アンタ(僕)みたいなんが産まれたか、分からん」とまで言います。
機会と手段がないので、調べようがないんですが、ご先祖様に、僕と似たタイプがいたのかも知れません。
もっともこれは、仮に知る術があって、ご先祖様との縁があったと分かったにせよ、「へえ」程度にしかならんとは思いますが。
「当たり前」は「非常識」
僕にとって「書く」ことは、ほぼほぼ「呼吸すること」に等しいんですよね。
誰だって、息ができなけりゃ死にます。
それと同じく、僕は「書く」ことを止めたら死ぬ、と思っています。
とは言え、それすなわち、湯水のようにネタが湧いてくるって意味じゃあないのですが。
しかし、なまじ「それなりに書ける」と、それが、自分の中での「常識」になる。
危ない。「自分の常識は、他人の非常識」です。
この辺、熟練の職人が、高度な技術を当たり前のように駆使するのと似ているかと。
(僕が熟練している、という意味じゃないですよ?)
ただ、手先の器用さなどの問題ではなく、「日本語を駆使する」ことが、そんなに難しいんだろうか?
OK、ワカってる。僕は長らく「言葉」と付き合っているからこそ、そう思うだけだ。
とは言えども、やっぱり、そんなに難しいことをやっている意識がないんですけどね。
ディスりたくはないものの……
神よ仏よ、何卒許し給え。
仲良くして頂いている方をディスる無礼を許し給え。
ただ、どーしても言いたい。言わねば己の毒になりかねない。ゆえに言う。
少し前のことです。
知人から、「小説を書いて懸賞に応募したので、試しに読んでくれ」と言われました。
曰く、「児童文学」であり、「絶対に結果を出してやろうと思って出した」そうです。
読みました。
「あ、おう」と思いました。
一言で言えば、「てんで話にならない」レベル。
児童文学どころか、最低限の小説としても成立していない。
さらに、表現のそこかしこから、イヤミなキザったらしさと、いかんともしがたい加齢臭を感じる。
この程度で、どの口が「絶対に結果を!」などと言えるのか?
そして、思った
いや、確かに僕も、懸賞小説においては、ほとんどが一次選考突破止まりですが。
それでも「そこそこには」書ける自信がある。
どうも「普通の人」が書いたら、「こういうこと」になるらしい。
その知人氏、「生まれて初めて書いた小説です」とのこと。
なるほど、初めて書いた小説で、賞を獲るような天才がいるのも事実です。
しかし、その知人氏の小説、「懸賞をなめんな?」と、大変な怒りに駆られる程度でした。
と、ここまで書いて「なぜ、こうも腹立たしいのか?」を、今一度考えてみました。
理由は明快。その知人氏、元々、僕が一時期通って修行したシナリオライター養成所の、同期の方なんですよ。
つまりは「書く」修行を一定以上積んだにもかかわらず、この体たらくかと。
話を戻しますが、しょっぱい現実として、世間一般では、「書けない」人が大多数の模様。
論文を発表するような研究者なら、また話は違ってくるでしょうが。
なんか、「普通に書ける」ことは、「割とレア」らしいの? え?
まとめ
ってことで、まとめます。
ごたごたと、「書ける」ことについて「ふしぎ!」と書かせて頂きましたが。
タイトル通り、要するに僕は、「自分を肯定したい」んですよね。
それだけの話のような気もします。
「執筆」というのは、地味なスキルです。
「誰にでもできる」と思っている人間が多いので、認めてくれる方も少ない。
優位性をアッピルするにも、ちとパンチに欠ける。
ではあるものの、やっぱり人間、人生の半分以上を捧げていることを、否定されたくはないですよね。
過去記事でも触れましたが、スキルの否定って、人格否定と同じですし。
偉ぶるつもりなんかないです。
まして、書けることでマウントを取るつもりなんざ、もっとないです。
そりゃまあ、個人のTwitter上のフォロワーさん方の中には、Web小説界隈で、僕なんかよりもっと人気の方もいる。
なんなら、書籍化された人もいる。つまり、僕より書ける人がいっぱい。
が、しかし。
あまりに「普段の周囲」が「書けない」人だらけだと、逆に「浮いている」気がする、この複雑さよ。
気にしたら負け、って話でもあるのですが、「自分の常識」がことごとく通用しないのはまだいいにせよ。
「支え」がないと、やっぱり不安になりますよね。
そんな、センシティブな十四かける3.5歳。
センシティブという言葉に謝れ。
んじゃまた。
文章:フジカワ