コラム

尼崎探索:遊女塚リポート

『遊女塚リポート』

 

はじめに

 

きっかけは、神崎町と高田町の境界道である弥生線を車で南に下っていた時だった。

「遊女塚」という名のバス停が目に入ってきたのだ。

 

遊女と言えば、夜伽を売る女性というのは知っていたが、さてこの辺りは歓楽街なのか、歓楽街の跡地なのか、いろんな想像が頭の中を駆け巡った。この辺りは大きな工場が立ち並んでおり、人通りも少なく、夜になるとネオンが明滅するような雰囲気はみじんもない。

 

数年たって、市内は昔から、かんなみ新地と神崎新地という赤線で区切られた地域があることを誰かから聞いた。それで、遊女塚のバス停は神崎新地のことを指しているのだと思った。

しかし、さらに数年後、遊女塚をふと思い出して少し歴史を調べてみたら、赤線とはほとんど関係ないことを知った。これは中世にさかのぼる遊女の墓碑のことらしい。

そのことについて簡単にリポートする。

 

中世の三国川と淀川をつなぐ工事

 

延暦3年(784年)から翌延歴4年に淀川と三国川とを江口付近でつなぐ工事が行われた。それによって現在の神崎川ができたという。

これによって神崎川が京都と西日本とを結ぶ河川交通の主要水路となりその河口の河尻地域が瀬戸内海航路の発着点として重要な要衝となった。

 

地名の由来

 

昔の河口なので中小の河川の作用で土地が造成されては地形が絶えず変化する三角州地帯であり、やがてこの地帯に「長洲」“ながす”・「神崎」・「蟹島」“かにしま”(※のちの加島)・「杭瀬」・「大物」(だいもつ)・「寺江」・「尼崎」などの津や洲・島が相次いで出現し、それぞれに港湾機能を持った港津(こうしん)が発達してきた。

 

地理的に栄えた土地

 

瀬戸内海と、都を結ぶ海運のルート上だから、漁業、運輸、交易など従事する人々が集まり住み着くのも当然で、当時の荘園制や流通経済の発展に伴い、このあたりはおびただしい船が行き来するために土地の重要性は増して栄えるのも必然だった。

とりわけ、河尻の河口付近は三方が海に面した低湿地帯で、洪水や風と波を防げず、河尻に入港しようとする船が着岸できなかったり沈没したりするので、河口をややさかのぼった神崎が船泊の地として繁栄したのである。つまり中世の海岸線は今の海岸線よりずっと内陸にあったのだ。

 

集落の発展

 

神崎は船舶や人間の往来が増加するとともに、にぎやかな宿屋町が形成された。よって多数の遊女や白拍子“しらびょうし”(※今でいう芸能人?)達も集まり、蟹島や江口とならぶ歓楽地へと発展していく。これが遊女塚のバックグラウンドの歴史である。

 

栄枯盛衰は世の習い

 

神崎宿の繁栄とともに登場した遊女たちは、ある者たちは力を得て院や貴族に招かれて歌舞・音曲等の芸だけでなく和歌を詠むまでに至り、宴遊に参加しては、なかには妻妾になるものもいたという。

文献によると当時の上皇が宴遊を行うさいには、江口・神崎をはじめとする遊女達を招いて、今様(当時の流行歌)などを謡わせて乱舞するのが常であったと言われている。

しかし神崎宿に溢れかえるほどの遊女たちのほとんどは食うや食わずの日々で悲惨だったに違いないと想像する。

 

法然上人の教化

 

1207年(建永2)のはじめに法然上人という僧侶が讃岐へ遠流されるさいに、この歓楽地と化した海運・河川交通の要衝の神崎宿屋町を訪れ、町や村人たちに「お念仏するなら、必ず西方極楽浄土へ往生できる」と説いた。

しかし、遊女たちは、法然上人の説法には遊女のような卑しい職業たちのものは含まれるはずがないと聞き分けていた。しかし遊女も人間である。内心はお念仏をすることでお浄土に生まれたいと願っていた。

そして思い切って神崎釈迦堂から出てきた法然上人に「私たちは卑しい者でも、お念仏を唱えたらお浄土に生まれることはできますか?」と尋ねたのである。

 

法然上人は、

「一心にお念仏するならば、必ず、西方極楽浄土に往生できます」

とお答えになった。

 

この教えを聞いた遊女たちは感激のあまり涙し、頭の黒髪を切り落とし、法然上人に差し出した。髪を切ることで明日の糧を失うことをいとわずに。

髪をおろした遊女を哀れんだ法然上人はその場でお剃刀の式を行い、遊女たちを仏さまの子として生まれ変わらせた。そして、法然上人は四国へ向かう。

 

導かれる死生観

 

仏の子となった遊女達は、声高らかにお念仏を唱えながら、次々にゆりあげ橋から身を投じて入水往生した。

卑しい者として、死ぬよりも辛い生きることが過酷な状況で、唯一の救済が西方極楽浄土に生まれ変わることであった。彼女たちは救済を確信して、今までの罪業にみちた生をおのずから終わらせたのである。

 

菩薩になった遊女

 

村人はそんな遊女たちの生まれや死に様にいたく心を痛め、憐れんだ。

そして、遊女たちの供養のためにと川岸にお墓を建てた。

やがて法然上人は四国から京へ帰ってくる途中、この神崎釈迦堂に立ち寄られた。

その際、入水した遊女の菩薩を弔うために川施餓鬼を勧めて、村人が建てた遊女のお墓の前で数珠繰りをして遊女の追善供養をされた。そのお墓が現在の遊女塚の墓碑として残っているのである。

 

おわりに

 

神崎釈迦堂も長い歴史の中で名も場所も変え、遊女塚も何度か移転したが、今は新幹線の高架下沿いの梅ヶ枝公園内にある。

当時に思いを馳せるとほろりとした苦い気持ちになる。人と物が活発に行き交う拠点に生きるために人々が集まり、日々の糧を求めてさまざまに働き、生きるすべを失った者たちが道端に骸を晒して誰の目にも止まらない時代、そのムクロ達を縫うように遊女たちが集い、小舟に乗って夜伽の誘いを大船の船員たちに呼びかける宿屋町がここにあったのだ。

その人々の営みは昔も今も本質的にそう変わらないことに気づくとき、バス停から塚までのバス路線の歩道を、あの日の遊女たちが夕暮れ時に、背を向けて川辺に進む光景が目に浮かぶような気がするのは感傷的過ぎるだろうか。

 

※引用URL

<WEB版 図説 尼崎の歴史>

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/chuusei1-1.html#

 

<如来院ホームページ(如来院のおいたち)>

http://hccweb6.bai.ne.jp/nyoraiin/rekisi.html

 

 

 

文章:drachan

 

画像提供元 https://www.pexels.com/ja-jp/photo/4947013/

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