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Lewis Abe(ルイス アベ)です。
第6回目の今回はロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝であるニコライ2世をご紹介したいと思います。
ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ(Nikolai Aleksandrovich Romanov)
[1868年5月18日(ユリウス暦5月6日)-1918年7月17日(ユリウス暦7月4日) 50歳没]
1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(※1)とその妃のマリア・フョードロヴナ(※2)の間の長男としてロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれる。弟にアレクサンドル、ゲオルギー、ミハイル、妹にクセニアとオリガがいる。
※1…ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男で後の皇帝アレクサンドル3世。
※2…デンマーク王クリスチャン9世と王妃ルイーセの第4子で次女。
訪日
1891年4月27日、ニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港。
有田焼や諏訪神社を見学して長崎を後にする。5月9日に瀬戸内海を通過して神戸に寄港。そこから汽車で京都へ向かう。大宮御所、京都御所、二条離宮、東本願寺、西本願寺、賀茂別雷神社などを訪問。ニコライは京都が気に入ったようだった。
大津事件
5月11日に大津に入り、琵琶湖や唐崎神社を見学。しかし同日、大津から京都へ戻る際に滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかった。しかし重いサーベルによる斬撃を受けた為、頭蓋骨に裂傷した。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。
即位と結婚
サンクトペテルブルクでバレリーナとして活躍していたマチルダ・クシェシンスカヤ(※3)を愛人としていたが、すでに心に決めた人がいた。ドイツ帝国(※4)領邦ヘッセン大公国(※5)の大公ルートヴィヒ4世(※6)とその妃アリス(※7)の間の末娘のアリックス(※8)だった。彼女は母を早期に失った為、祖母のヴィクトリア英女王の下で育てられた「生粋のイギリス人」であった。2人は1886年、ニコライの叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ大公(※9)とアリックスの姉のエリーザベト(※10)の結婚式で初めて知り合い、その後何度か再会する機会を得て親しくなる。ただロシア皇太子妃になる為にはロシア正教に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた。1894年4月にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(※11)とヴィクトリア(※12)の結婚式に出席した際、アリックスと2人だけで話す機会に恵まれ、ニコライが熱心に説得し、アリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めた。その年の初秋に父のアレクサンドル3世が病に倒れる。10月中旬になると寝たきりになり、ニコライ皇太子が皇帝の公務を代行するようになる。11月1日にアレクサンドル3世が崩御。1896年ユリウス暦5月14日にモスクワのクレムリンにあるウスペンスキー大聖堂で皇后と共に戴冠式を行った。戴冠式に日本からは伏見宮貞愛親王(※13)、特命全権大使として山縣有朋(※14)が出席した。
※3…ロシア帝国のバレリーナで、ロシアで初めてプリマ・バレリーナ・アッソルータ(バレリーナの最高位の肩書きとされる)となった人。
※4…1871年1月18日~1918年11月19日までドイツ国において存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く体制を指す歴史的名称の事。
※5…ドイツ中部にかつて存在した国。
※6…ヘッセン大公国の第4代大公。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール。
※7…イギリスのヴィクトリア女王とアルバート公の次女。
※8…ロシア皇帝ニコライ2世の皇后。オリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子の母。
※9…ロシア大公。ドミトリー大公(ニコライ2世の従弟)の伯父で育ての親でもある。
※10…セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の妻。
※11…ヘッセン大公国の第5代大公。
※12…ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの最初の妃。のちにロシア大公キリル・ウラジーミロヴィッチの妃となる。
※13…日本の皇族で陸軍軍人。伏見宮邦家親王第14王子である。
※14… 日本の陸軍軍人で政治家。第3・9代の内閣総理大臣を務めた。
祈祷僧ラスプーチン
1904年に生まれた皇太子のアレクセイは、当時は原因不明の不治の病と言われていた血友病(※15)の患者であった。1905年11月にグリゴリー・ラスプーチンという祈祷僧が宮廷に呼ばれる。ラスプーチンが祈祷をすると不思議な事にアレクセイ皇太子の病状が好転。これによりアレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調する。その後もラスプーチンは度々宮殿に呼び寄せられる。皇帝一家はラスプーチンの事を「我らの友」と呼ぶようになり絶大な信頼を寄せるようになり、ラスプーチンはいつしか政治にまで口を挟むようになる。
大戦と革命
1914年6月にサラエヴォ事件(※16)が起きる。7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告し、ロシア軍部は戦争準備を主張して皇帝へ圧力を掛ける。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂。彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つと言われているロシア軍総動員令を7月31日に布告。汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦し、ドイツとの戦端を開いた。開戦によりドイツ語風の名を持つ首都サンクトペテルブルクもロシア語に訳してペトログラードと改められる。タンネンベルクの戦いでは敵の3倍近い兵力を持っていたが1個軍(20万人相当)を喪失するという壊滅的な敗北を経験する。1916年12月にラスプーチンは皇帝の従弟であるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公(※17)らに暗殺され怪死を遂げる。
帝国の崩壊、そして最期
こうした状況下で二月革命(※18)が起こる。1917年3月15日(ユリウス暦3月2日)にニコライ2世は最終的にほとんど全ての司令官の賛成によって退位させられた。ニコライ2世は皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公(※19)に皇位を譲ったがミハイル大公は即位を拒否。これにより300年続いたロマノフ朝は幕を閉じた。
ボリシェヴィキ(※20)による十月革命(※21)が起こりケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルク(※22)へ移され、イパチェフ館に監禁される。1918年7月17日、元皇帝一家7人、ニコライ2世の専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人、従僕の11人はイパチェフ館の地下で銃殺され、これにより元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えた。
※15…血液凝固因子のうちVIII因子、IX因子の欠損ないし活性低下による遺伝性血液凝固異常症である。
※16…オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクがサラエヴォを訪問中にボスニア系セルビア人の青年によって暗殺された事件。
※17…ロシア帝国の貴族。
※18…第一次世界大戦中で敗色濃厚で国内が食糧不足であったロシア帝国で戦争継続と専制政治に反対する大規模なデモへのロシア皇帝による鎮圧、それに対する兵士の反発・職務放棄から発生した民主革命。
※19…ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの第4皇子。
※20…ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジミール・レーニンが率いた左派の一派。
※21…ロシア首都ペトログラードで起きた労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命である。
※22…ロシア連邦の中央部に位置する大都市。
©ニコライ2世 (ロシア皇帝) – Wikipedia
今回はここまででーす!!
文章:Lewis Abe(ルイス アベ)
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