時々、やたらと腰が痛い日ってのがあるんですが、年齢を感じます(挨拶)。
と、いうわけで、フジカワです。
職場内は当然禁煙なんですけれども、外が雨だと屋外で吸えないため、嗅ぎタバコをひそかに買ったりしている今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回の記事は、「万博なあ……」とかいった話です。
前提
さて。ご存じの方も多々いらっしゃるかとは思いますが。
二〇二五年、大阪・関西万博が開催されます。
一九七〇年以来、五十五年ぶりの万博であり、かなりの経済効果が期待されています。
現在、気運を高めんとして、様々な試み、周知活動が為されています。
それにケチをつけるつもりはありません。
また、万博の開催に反対しているわけでもありません。
これが大前提。
妙な違和感が……
ぶっちゃけ、ぬぐえない。
なんだろう? 可愛いと言うにはちとアレな、公式キャラもそうですし。
これを書きながら、ちょっと公式サイトを見てみたところ、どうにも「ワクワク感」がない。
美しい理念を打ち出しているにもかかわらず、行ってみたいと思えない。
OK、百歩譲って、僕が独身であり、連れ合う家族というのがいないってのはある。
加えて、人混みがとても苦手だという、心の風邪の症状もある。
この点は、風邪を引いてなくても、基本の性格がそうなんですが、それは関係がない。
家族連れなら、行くかも知れないけれど……ぶっちゃけ、そこまで人が集まらないんじゃ? と、かなり猜疑的です。
テーマパークと比べると?
そりゃ確かに、ネズミーランドとか、うにばーさるすていでぃおジャパァン! とかが、連日盛況なのは知ってます。
余談ですが、僕は、れっきとした関西人でありながら、うにすた(ひどい略だ)には、開業以来一度も行ったことがありません。必要がないので。
ネズミにしろ、うにすたにせよ、あれらは「テーマパーク」です。
要は「分かりやすいテーマ=主題」がある。
もっとひねた見方をすれば、「現実逃避のためのテーマ」が基本です。
ひるがえって、二〇二五年の万博。
「未来社会の実験場」というコンセプトだそうです。
さらにひねくれると、「未来への楽観的、かつ、建設的な希望ありき」のコンセプトに思えます。
余裕、あるのかなあ?
娯楽、物見遊山というものは、「余裕」あってこそです。
それでなくとも昨今が、「生きているだけでしんどい」世の中なのは、肌の感覚にあります。
はて。そんな「いっぱいいっぱい、ギリギリ」な中で……
あえてメタクソに悪く言いますが、「観念的な」、「どこか押しつけがましい」、「考える余裕のない」テーマを掲げた博覧会に、みんな行くんだろうか?
うん、純粋に楽しみにしている人々もいるでしょう。それが悪いなんて言ってません。
ただ、懸命に旗を振っても、イマイチ(いち個人の、肌感覚として)盛り上がりに欠けている気がする。
五十五年前の万博は……
高度経済成長期でした。
要は、みんなが「希望」に満ちていた。
「今」はどうでしょう?
確かに技術は進歩しましたが、「明るい未来」を抱いている人って、あんまりいない感覚が。
どうにも、周囲に「余裕」がないように思えるんですよね。
いかな僕とて、万博が失敗して欲しいなんて、微塵も思ってないですけど……
「余裕がない中での、強行開催」というニオイがして、なんか不穏。
個人の宗教上の問題として?
僕が、そういう「お祭り」を、あんまり好きじゃないってだけなのかも知れません。
加えて、いわゆる「意識高い系」のスローガンが嫌いだから、というのもあります。
仮に、僕にも嫁や子どもがいたならば、多分、行くとは思いますが、その前に、やはり「余裕」を吟味してからにするでしょう。
「格差が!」と、聞かない日があるのか? ってな昨今、そりゃあ行ける人は行けばいいですけど、このモヤモヤは何だ?
まとめ
繰り返しますように、僕は決して、万博に反対しているわけではないです。
ただ、五十五年前のそれと比べて、「希望を持つ」のが(悲しいながら)難しくなった今、はたして、意義が浸透するのか?
ま、一般来場者はそこまで考えないでしょうし、全ては余計なお世話、ですね。
んじゃまた。
文章:フジカワ