【尼崎の歴史発掘】天下五剣の1つ『数珠丸』を収蔵する兵庫県尼崎市の「本興寺」の紹介
阪神尼崎駅南西約200mの兵庫県尼崎市開明町3丁目13にある本興寺は、法華宗の4つある大本山の1つで、法華宗本門流の大本山です。
本興寺は天下五剣の1つで重要文化財(旧国宝)、法華宗の宗祖『日蓮』聖人の所持していた守り刀の数珠丸が重蔵されており、その他にも『御開山日隆聖人御木像』、『開山堂』、『方丈』、『三光堂』が重要文化財に指定されています。
それらは毎年11月3日、文化の日の『虫干し会・三光祭』に一般公開され、その日には織田信長等の武将が出した『禁制』(権力者が寺社大衆に禁止事項等を告知した文書)や美術品も公開されます。
本興寺は1420年(応永27年)に法華宗本門流の派祖『日隆』上人が、現在の尼崎市大物に守護大名『細川満元』の寄進によって開創され、1617年(元和3年)に尼崎城築城の為に現在の場所に移転しました。
日隆上人は障害に3千余帖(363巻)の著述し16箇寺の寺院を建立、その中には本能寺の変で知られる本能寺(本応寺)があります。日隆上人は1464年(寛正5年)に本興寺において81歳で入滅(亡くなる事)しました。
天下五剣の1つ数珠丸は、平安末期から鎌倉前期に活躍した刀工で『後鳥羽院御番鍛冶』の1人、『青江恒次』によって造られたとされる日本刀(太刀)とされています。青江恒次は備中(岡山)の刀工集団『青江派』を代表する刀工で『備前守』の『受領名』を朝廷から下賜されています。
1274年(文永11年)に日蓮聖人が御家人『南部実長』の招きで、甲州(山梨県)身延山に入山の際に信者から護身用として贈られたのが数珠丸です。
日蓮聖人が数珠丸の柄に数珠を巻いて破邪顕正(邪な物を打破し、正しい考えを示す云う意味)の太刀として所持した事から数珠丸と云う名前が付いたとされています。
日蓮聖人の入滅後、遺品の数珠丸は袈裟と中啓(扇子の一種)と合わせて三遺品として久遠寺で保管されていましたが、1716年~1736年の享保年間に久遠寺から行方が分からなくなってしまいます。
1920年(大正9年)10月に尼崎出身の刀剣研究家で『中央刀剣会』の評議員・幹事・審査員の『杉原祥造』が華族の競売品の中から数珠丸を発見し購入しました。
杉原祥造は久遠寺に返還を申し出ますが、久遠寺は数珠丸の真贋が定かではないと申し出を拒否したため数珠丸は本興寺に寄贈されました。
文章:北山南河
画像出典 https://foter.com/f7/photo/4071723794/eaecc04c91/
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