専門家の意見はいらない
今ほど、「専門家」というものの価値が切り下げられたことはかつてないのではないでしょうか。
おそらく東日本大震災がひとつの大きなターニングポイントであったと考えられます。
というのは、巨大地震の予測において地震学者の敗北が明白となったこと、原子炉のメルトダウンの際原子力工学の専門家のいい加減さが明るみになったことなど、専門家がその役割を十分に果たさない存在であることが如実に示されてしまったからです。
次々と発生する問題に対処するために、メディアも政治家も一般大衆も専門家を頼りにします。
しかし、専門家の見解はまったく頼りになりません。
ニュース番組をみていると(ニュース番組などみるのが悪いのかもしれませんが)、何か問題や事件があり、それを扱ったニュースのなかで「専門家は…」というアナウンサーの声のあとに専門家がおしゃべりするVTRが流れます。
聞いていると、中身のある内容など皆無である場合がほとんどなのです。
素人でも考えつきそうなことや当たり障りのない言葉が続いたあと、
「・・・真剣に考えていかなければならない」「・・・が求められる」などと締めくくられます。
というのも、ある一定の範囲の事柄にのみ、ひじょうに詳しい専門家が、まったく専門外のことについて見解を求められるため、ありきたりのことしか言えないということと、踏み込んだ発言はそれ自体物議をかもす結果となり行きつく果ては学者生命を絶たれることになりかねないがゆえに誰でも思いつくことしか言えないからなのです。
専門的な<知>が社会権力の源泉であることが広く知られ、ひとびとが専門家を頼りにして意見を求めるものの、現実に起こる問題は専門の範囲を遥かに超えた広い領域に関する事柄が影響を及ぼす巨大で複雑なものです。
専門家が大衆をある意見へと誘導するために際限のないポジショントークを繰り広げる場面をみなさんもご覧になったことがあるでしょう。問題の複雑さを、より複雑で困難なものに仕上げてしまう専門家の罪はとても深いと言わざるをえません。
専門家の意見はいらないのではないでしょうか。
文章:増何臍阿
画像提供元 https://visualhunt.com/f7/photo/49608750001/e08de25aa2/