ノンフィクション:『ネジが人を台無しにするとき』
むかし、塔を建設する際に高所からネジか何かが落下して、通行人に当たった。
通行人は「これはめでたいことだ」と吹聴すると、地元の新聞社がそれを取り上げて、まるで「宝くじにでも当たった」かのようなゲン担ぎの美談として記事を流布した。
ノスタルジックな昔話である。
もし、現在にこのような事が起きたらどうなるだろう。
目撃した善良な人が通報し、人身事故として、救急車がやってきて怪我人を病院に搬送する。警察や消防が事故現場検証を行い、事情聴取や物的証拠を集め、事故の事実関係を詳らかに解明していく。
もし工事のやり方に不備が見つかれば、行政処分を視野に入れた刑事責任を問うためにこの事故の責任の所在を明らかにしようとする。
責任の所在が工事を請け負った会社だと判明すれば、社長をはじめ関係者たちが人身事故の被害者のもとへ誠心誠意でお見舞いと謝罪に訪れ、治療費や慰謝料などの被害者の損害賠償を金銭で以て償い、民事責任を果たそうとする。
その一方で、新聞社やテレビは、人身事故を起こした当事者の過失の程度を事細かにインタビューや証言を積み重ねて事故の真相に迫るだろう。
その真相や分析された問題点を指摘した上で、社会に広く流布して人々の関心を惹きつけ、「二度とこのような人身事故が起こらないためにどうすればよいのか」と有識者や専門家の意見を請う様子までを、テレビ画面やモニター越しに各世帯や各個人に情報提供する。
しかもSNS隆盛の時代である。共有された情報を元に論客を自負する者たちの流言飛語が飛び交い、工事を行った会社は社会的責任の名の下、誹謗や中傷の言葉を投げつけられる。
その先走った正義感の矛先はなぜだか被害者まで向けられ、出回った風聞をたよりに被害者の素性が広く世間に流布してゆく。たとえば慰謝料はいくらだったのかから始まり、発言の真意を好き勝手に解釈されるなど、詮索の勢いは留まることを知らずに個人情報や私生活のささいな醜聞まで暴露され、被害者は精神的な苦痛を味わい、公衆の中で後ろ指をさされて暮らすことに絶望して行き場を失うに至る。
その事実がさらに、善良な人々の過剰に肥大した正義感に拍車をかけて「誰が被害者を追い詰めたのか」の犯人探しが始まり、マスコミのコメンテーターや評論家までも巻き込んで、感情論の赴くままに揚げ足取りの罵詈雑言が独り歩きしていく。最後にはとうとう政権批判の材料として事件が取り扱われ国会で侃々諤々の議論がなされる始末になる。いや、始末におえなくなるのである。
かつては粗野だがおおらかな人々の時代があった。
今は違う。別の何かになっている。
ひとつのネジが人を台無しにする時代なのである。
文章:drachan
画像提供元 https://live.staticflickr.com/173/444993593_24b12661a7_z.jpg